うたたね図書館

散らかった好奇心を集める場所

偶然か選択か

 ここ最近観た映画とテレビ番組が内容が、なんとなく自分の中でつながっていて、

「これは偶然なのか、それとも知らないうちに選択したことの積み重ねなのか?」と思っている。

 何かと話題豊富な『ター」を観に映画館へ。感想はまた別の機会にするとして(つまり消化しきれていない)、主人公が仕事場に使っていると思われる部屋に心惹かれた。生活の拠点は、充実した広さと設備はあるものの、どこか冷たい感じのする高級なフラット。一方の仕事場は、防音設備もなく古ぼけたアパートの一室だ。私の好みはこの古いアパートのほうで、何となく乱雑ながらも清潔にしてあるといった風情が非常に好もしく感じた。

『ター』の公式HPや批評などを探すうち、どこかで「シャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』へのオマージュがある」という一文を読んだ。折しもシャンタル・アケルマン映画祭が開催中でその作品も上映されていたのだが、予定が合わずに断念。実は昨年も彼女の映画祭は開催されていて、かなりの期待を持って『オルメイヤーの阿房宮』を観に行ったのだが完全沈没。同じ轍を踏むかもと思いつつも、『東から』という、ソ連崩壊後の元社会主義国をひたすら映し出すという作品を鑑賞した。ナレーションや説明は一切なく、言葉を知っていなければ、どこの国とわからないような撮り方になっている。当然日本語字幕もなし。嫌な予感にもかかわらず意外にも最後まで食い入るように見てしまった。

 それは、映画館に行く前に観た、NHKのドキュメンタリー『ファイトロード』が思いのほか好番組で、その余韻が残っていたからかもしれない。セネガル相撲を体験する村田涼太の、非常にまじめな人柄が分かって好感が持てたし、現地での人と人との垣根の低いところをうまく番組に取り込んであるところもよかった。昔ダカールに行ったとき、スーパーをぶらぶらしていると、サッカーの元セネガル代表が仕事をしていた。案内してくれた人が「ほら、***(名前忘れた)選手だ」と言って、一面識もないはずなのにつかつかと近寄って何やら親しげに話しかけると、相手もにこやかに応対しているではないか。はたから見ると、久しぶりに会った知人という感じ。そんなやり取りがこの番組にもしっかりとカメラに収められていて、その余韻が映画鑑賞の助けになった気がしている。映画のほうは、普通の生活ぶりといってもなかなかに厳しく、人間の忍耐強さを試されているような場面も多く、正直自分がそこにいたら無事にやり過ごせていたかなと心配になってしまう。例えば、冬の夜道にずらりと人々が並んでいて、その手には何かを持っている。よく見れば、たばこだったり、牛乳だったり、袋入りのお菓子だったり。おそらくは、道行く人に売買あるいは物々交換を持ち掛けているのでしょう。映画は何の説明もしないし、具体的に「これいくら?」「そっちは何持ってる?」なんてやり取りも映らない。映像はバッサリとした映し方でも脳内補完が十分できるというか、想像の余地があるというのか。そんなやり取りを観ていると、直前のテレビ番組の余韻がふと頭に浮かんで、そんな面倒なやり取りを切り捨てながら、一方では人間関係が希薄だと不満を言う自分自身の心の内を見つめている気がしてきた。説明が一切ないからこそ、映画を見ながら自分の中にいろいろなことや、考えが浮かび上がってきて、作品と話しながら見られたから、最後までたどり着けたのかもしれない。

 そうそう、この映画であるチェリストの演奏会の様子が撮影されていて、あっと思いながら「ター」のチェリストがよみがえってきた。

 おそらくは偶然なのだけれど、こんな風にめぐりめぐってくるところがあるから面白い。