うたたね図書館

散らかった好奇心を集める場所

『転がる香港に苔は生えない』読了

著者:星野 博美 

出版社:情報センター出版局 

発行年:2000年4月19日 第一刷 2001年7月26日 第六刷

 著者の星野博美さんは私と同世代。(正確には学年が一緒で年齢は半年ほど私が上だと思う)この本が出版されて、大宅壮一ノンフィクション賞受賞というニュースを読んでいたころ、「すごいなー」とか「なんか悔しい」といささか負の気持ちがあって、結局読まないまま過ごしておりました。同世代の成功をねたむという、嫌な人間ですね、私。今思うことは、「もっと早く読んでおけばよかった」の一言です。

 私が初めて香港に行ったのはおそらく92年頃。返還前であったのは確か。社員旅行でよくある観光を一通りして、明らかに私に見せてくれない世界があるなと感じたものでした。それは、どこの観光地にでもある事かもしれないけれど、当時の香港はぎりぎり英国の植民地であったわけだし、返還も控えているということで何かありそうなのに決して私には見えないものがあるんだろうなと強く思った事を覚えている。

 著者はその「何か」を確かめに飛び込んでいったわけだけど、よくある、いかにして地元の生活に親しむか、外国人だからと舐められないようにするかといった話ではなく、あくまでも異邦人のまま、その時の香港にまさにまみれながら暮らして感じて考えたことを、あまり重たくならない筆致で綴っていく。

 例えば、日本人がいかに資本主義の本質を知らずに今まで過ごして来たかということを書いてある下り。これを説明する以下の場面が結構気に入っている。香港の街市(市場)で卵はばら売り。一つ70セントの卵と60セントの卵の違いは何か。品質もさりながら、『70セントの卵は自分で選んでいいが、60セントの卵は選べない』(170ページ)。日本でも私が高校か大学生くらいまでは市場に行けば卵はばら売りだった。そして裸電球にすかして黄身の大きさを確かめたりして、満足のいくものをかごに入れてお店の人に渡すと、新聞紙にきれいにくるんでくれたものでした。で、香港の人は食材の鮮度にうるさい。自分で手に取って確かめられない物しか買えないというのは、大変な屈辱であり馬鹿な人間の証なのだと。これは強烈だ。

 他に、もっと早く読んでおけばと思ったのは、香港における「禁区」の話。本書でも「禁区」自体の説明はないのだが、読んでいけば、それは大陸側との国境近くの区域で、密輸(モノだけでなく人も)や開発地域への立ち入り防止などの目的で移動が制限されているところがあるのだなと分かる。で、なぜそのことを知っておけば良かったかと言えば、最近観た「縁路はるばる」という映画の中にその「禁区」が出てきたからだ。映画の主人公は適齢期を迎えた男性で、出会い系アプリを使ってガールフレンドと付き合うのだが、なぜか都会ではなく香港の端=縁に住んでいるというのがキモになっていて、「禁区」もその流れで初めて知った言葉だった。返還年前後と映画製作時期の2020年代では意味合いもだいぶ変わったかもしれないが、この本を先に読んでいれば、変わりゆく香港をもっと深く感じることができたかもしれない。

 著者にとっての香港は中国と切っても切れない「鶏と卵」のような存在だと書いている(前書き)。私の場合は、香港から始まって中華圏への興味が湧いたと言ってもいいかもしれない。とはいえ、著者の興味の対象となるものは、おそらく少しでも香港に行ったことがある人ならうなずけるものばかり。こんな体験をしてみたかったと思いつつ、一方でこんなめんどくさいことお断りとも思ってしまうので、私のように怠け者な人間は、勤勉な方の体験をおすそ分けしてもらうのがちょうどよいのかもしれない。

 著者の作品はこの本以降も多数あるので、興味がどんな風に移り変わっていったのか、追いかけてみたいと思っている。