うたたね図書館

散らかった好奇心を集める場所

『転がる香港に苔は生えない』読了

著者:星野 博美 

出版社:情報センター出版局 

発行年:2000年4月19日 第一刷 2001年7月26日 第六刷

 著者の星野博美さんは私と同世代。(正確には学年が一緒で年齢は半年ほど私が上だと思う)この本が出版されて、大宅壮一ノンフィクション賞受賞というニュースを読んでいたころ、「すごいなー」とか「なんか悔しい」といささか負の気持ちがあって、結局読まないまま過ごしておりました。同世代の成功をねたむという、嫌な人間ですね、私。今思うことは、「もっと早く読んでおけばよかった」の一言です。

 私が初めて香港に行ったのはおそらく92年頃。返還前であったのは確か。社員旅行でよくある観光を一通りして、明らかに私に見せてくれない世界があるなと感じたものでした。それは、どこの観光地にでもある事かもしれないけれど、当時の香港はぎりぎり英国の植民地であったわけだし、返還も控えているということで何かありそうなのに決して私には見えないものがあるんだろうなと強く思った事を覚えている。

 著者はその「何か」を確かめに飛び込んでいったわけだけど、よくある、いかにして地元の生活に親しむか、外国人だからと舐められないようにするかといった話ではなく、あくまでも異邦人のまま、その時の香港にまさにまみれながら暮らして感じて考えたことを、あまり重たくならない筆致で綴っていく。

 例えば、日本人がいかに資本主義の本質を知らずに今まで過ごして来たかということを書いてある下り。これを説明する以下の場面が結構気に入っている。香港の街市(市場)で卵はばら売り。一つ70セントの卵と60セントの卵の違いは何か。品質もさりながら、『70セントの卵は自分で選んでいいが、60セントの卵は選べない』(170ページ)。日本でも私が高校か大学生くらいまでは市場に行けば卵はばら売りだった。そして裸電球にすかして黄身の大きさを確かめたりして、満足のいくものをかごに入れてお店の人に渡すと、新聞紙にきれいにくるんでくれたものでした。で、香港の人は食材の鮮度にうるさい。自分で手に取って確かめられない物しか買えないというのは、大変な屈辱であり馬鹿な人間の証なのだと。これは強烈だ。

 他に、もっと早く読んでおけばと思ったのは、香港における「禁区」の話。本書でも「禁区」自体の説明はないのだが、読んでいけば、それは大陸側との国境近くの区域で、密輸(モノだけでなく人も)や開発地域への立ち入り防止などの目的で移動が制限されているところがあるのだなと分かる。で、なぜそのことを知っておけば良かったかと言えば、最近観た「縁路はるばる」という映画の中にその「禁区」が出てきたからだ。映画の主人公は適齢期を迎えた男性で、出会い系アプリを使ってガールフレンドと付き合うのだが、なぜか都会ではなく香港の端=縁に住んでいるというのがキモになっていて、「禁区」もその流れで初めて知った言葉だった。返還年前後と映画製作時期の2020年代では意味合いもだいぶ変わったかもしれないが、この本を先に読んでいれば、変わりゆく香港をもっと深く感じることができたかもしれない。

 著者にとっての香港は中国と切っても切れない「鶏と卵」のような存在だと書いている(前書き)。私の場合は、香港から始まって中華圏への興味が湧いたと言ってもいいかもしれない。とはいえ、著者の興味の対象となるものは、おそらく少しでも香港に行ったことがある人ならうなずけるものばかり。こんな体験をしてみたかったと思いつつ、一方でこんなめんどくさいことお断りとも思ってしまうので、私のように怠け者な人間は、勤勉な方の体験をおすそ分けしてもらうのがちょうどよいのかもしれない。

 著者の作品はこの本以降も多数あるので、興味がどんな風に移り変わっていったのか、追いかけてみたいと思っている。

 

 

 

 

『モダンガール論 女の子には出世の道が二つある』 読了

著者    斎藤 美奈子
出版社    ㈱マガジンハウス
発行者    細川 泉
発行年    2000年12月21日 第一刷
    
米原万里さんの「打ちのめされるようなすごい本」でご紹介の本を端から読んでいく、野望の第二弾。

    
「女の出世」とは何か?おそらく気が付いていても口に出さない「アレとソレ」です。 
古くて新しい、21世紀になっても綿々と続く、「仕事か家庭か」。    
    
本書は、女性の社会進出の歴史を「出世」ととらえ、その根底には「欲望」があると    
仮説を立て、時代を追って検証していくもの。    
「出世」すごろくの上がりは「良妻賢母」か「職業婦人」の二つの道があり、その分岐はどこにあるかを調べていくうちに、20世紀の女性の生き方を歴史的に俯瞰することになったとのこと。    
    
話はそれるが、この本を読む少し前に、映画「バービー」を観ていた。いろいろと外野がうるさかったけれど、厳しい話を、楽しく笑ってまさにハッピーになれる楽しい作品というのが素晴らしい。アメリカ・フェレーラ演ずる、女性にかけられた各種の呪いの数々を独白する場面は、「そうだ、そう言って欲しかった」ということばかり。 
「(女は)きれいでいろ、きれいすぎるな。賢くあれ。ただし男より賢くなるな。 金をもうけてこい、但し夫より稼ぎすぎるな」という相矛盾する呪いに引き裂かれて、自分を見失いそうになるということ。    
    
著者は、「女の出世」すごろくに二つの道があると言ってもあくまで「『男は外/女は内』という性別役割分業社会の上に成立したものである」と述べている。(262ページ8行目より引用) そして、「男も女も頭を切り替えて、システムごと交換しないかぎり、次の展望は開けてこないだろう。そのための道を探ることが、新しい夢になるのかもしれない」(263ページ17行目より引用)と結んでいる。    
    
これって、まさに「バービー」の世界。使い古されているかもしれないけれど、地に足をつけて、自分と向き合う。言葉にすると、何だか10代の青少年向けのアドバイスみたいだけれど、私にはとても大切な考えと感じた。    
特に、雑誌の投書の引用から当時の女性たちの立場や考えを推論し、今に続く問題が浮かび上がっていくあたり、思い切りのいい文体と相まって、まさに目が開く思いがした。    
    
出版年が2000年と、今を去る事四半世紀前(!)なので、21世紀の出世すごろくはどうなっているのだろうか?    
今や「良妻賢母」は職業を持っているのが当たり前だし、職業の選択肢も広がっていると思う。とはいえ、それはおそらく40代くらいまでの人間を想定しているのであって、引退世代の60代になると、今度は隠居か現役かに代わってくるのでしょう。言葉を対立させて書くと、二つに一つとなってしまうけれど、この両者の間には言い表しきれない濃淡がある。 悠々楽隠居か、あくせく働くのか。隠居という名の座敷牢に押し込められるのか。自分のペースで好きなように働くのか。    
 こうなったら、「出世」という言葉自体の意味を問い直したいくらいだ。    

タイトルになっている「モダンガール」は今も形を変えて生き続けていると思う。    
「積極的」とか「ポジティブ」とかを頭に載っけている女性を飾る言葉には要注意だ。   最先端を自任する人たちは、「後ろ向きな姿勢や保守的な態度を嫌う。」(191ページより引用) だから、軍国婦人にもなれば戦後は民主主義を旗印に婦人解放・平和運動なんかに走ってしまう。「『進歩的』な女の人はいつも『新体制』の前で張り切っちゃう」という一文(194ページより引用)は忘れないでおきたい。    
 自分で考えて選択しているつもりでも、筋を通せているかなんて判断できないし、流されないでいられるほど  強くもない人間としては、せめて自分が簡単に転びやすいのだと自覚くらいはしておきたい。

 最終頁に掲載された「戦前戦後の女性の動き・対照表」は必読。2000年以降の事象と対比させるのは一体いつの時代なのでしょうか?もしや映画、「MONDAYS」のように、同じことを何周もループしているだけ?文献案内もついているので、これもブックガイドとして、とりあえず記録しておこう。

 

『家族と社会が壊れるとき』読了

 


映画監督の是枝裕和ケン・ローチの対談番組を元に、追加取材と加筆修正を行ったもの。この本の元になった番組は二本とも見たのですが、どうしても尺の都合で物足りない部分や、もう少し詳しく聞きたいところがありました。

 たまたま、図書館でこの本を目にしたので改めて番組を思い出しつつ読み進めました。

 是枝裕和作品で鑑賞済なのは、「万引き家族」「そして父になる」「真実」「怪物」の四本。監督の名を一躍高からしめた「誰も知らない」は未見。あまり知った風なことは書けませんが、共通しているのは「誰にとっての真実か」を追いかけているのか、という点です。善悪や是非ということではなく、登場人物にとってそれしかないような行動を、じっと見つめている作家のように思えます。

 対談相手のケン・ローチは、是枝監督の尊敬する監督であり、世界的にも評価の高い作品を今なお発表し続けいてる、まぎれもない大監督です。こんな言い方はおそらく好まないのでしょうけど、筋金入りの社会主義者として筋の通った作品を世に出し、しかも映画祭などでの評価が高いとくれば、これ以外に言いようもないかと思います。

 お二人のお話で何度も出てくるのは、世の中は簡単な二項対立ではないし、もっとあいまいなものもあるということ。立場的に弱い人々に寄り添っていくことが大切なこと。協力しあい団結することが大切なこと。何だか青臭い感じさえすることですが、忘れずに心にとめておきたいことです。

 作品作りのテクニック、例えばカメラを置く場所など、その必然性について語っているところも興味深く、この辺は、合わせて作品を見直せば監督達の意図をどのくらい読み取れていたかの答え合わせにもなりそうです。

 対談番組を見ていて一番気になったのは、ローチ監督の「子役はどんな風に選ぶのか?」という問いでした。これは前段があって、イギリスでは労働者階級の人達というのは見ればわかるから、俳優がそのふりをしているだけでは作品にならないと述べています。それを踏まえての「貧困は肌に表れる」という発言です。この言葉を聞いて私自身は「あっ」と思ったし、是枝監督の表情にも動揺が現れたように思えました。キャスティングは映画の出来を左右する重大事項である上に、スポンサーなども絡むのかもしれないと考えるとかなりデリケートなところだなと感じましたが、そこに切り込んでくるローチ監督、やはり只者ではないのです。

 この質問に対して、是枝監督は、「『万引き家族』では、いろいろな背景を持つ人間の集まりだから、必ずしも典型的な顔立ちでなくてもいい」といった感じのことを述べています。なるほど、そういう意図があったのかと思いつつも、もう一つ踏み込むためには作り手に相当な覚悟が必要なのだなと感じた次第です。階級がないとされている日本で、見た目をとらえて「貧困にあえぐ顔立ち」だからキャスティングしたなどとは言いにくいのでしょう。この一文をここに書くだけでも、私も緊張したので、作品を世に問う立場の人は、表現一つにも本当に身をすり減らす思いなのだなと想像します。

 読んでいて良いなと思ったのは、ローチ監督はエキストラの俳優にも名前で呼びかけるということ。少し話はそれるけど、「ベイク・オフ」(原題:British Bake Off)という番組の司会者のことを思い出しました。例えば、「このレシピはどうやって?」「叔母からです」といった会話があったとすると、「叔母様ね、お名前はなんとおっしゃるの?」なんて、すかさず名前を聞き出すわけです。そのあたりのやり取りがチャーミングかつ、敬意がこもっていて毎回いいなと思っています。名前を聞くとは、相手の顔が浮かんで、背景も少し見えてきてということにつながると思うので、ローチ監督にすれば何でもない当たり前の事かもしれないけれど、それが作品に表れるのだなと思った次第です。

2020年12月10日 第一刷発行

著者:是枝裕和 ケン・ローチ(Ken Loach)

発行所:NHK出版

 

 

映画:『ノートルダム 炎の大聖堂』鑑賞


 2019年4月15日に発生した、フランス、パリにあるノートルダム大聖堂の火災事故を、ジャン=ジャック・アノー監督が映画化したもの。

 もちろん、火災当日にカメラを回せるわけもなく、公式HPによれば「大規模なセット

ば火災現場に入れないため、観ているこちら側も、熱やにおい、煙にまかれて前が何も見えなかったりする様子が迫ってきて、臨場感満点の作品となっていました。

 世界的な文化財が焼け落ちていくのをただ見守るしかできないのは、膨大な数の

ギャラリーのみならず、陣頭指揮にあたる消防隊長以下、ノートルダム大聖堂の司教、学芸員、警備担当者、群衆整理の一警官に至るまで、こちらもいつ爆発してもおかしくない苛立ちを畳みかけるように見せていく演出のおかげで、大惨事にどう立ち向かったかという記憶の映画になっていると感じました。

 以下(ネタバレありです)、順不同で印象に残った部分を上げますと、

 

【歴史的建造物が燃えると】

ノートルダム大聖堂は1225年に完成した、ゴシック建築を代表する建造物。

記憶をさかのぼる事20数年以上前、一度だけここに上ったことがあります。当時若かったとはいえ、あの鐘まで登るのは苦しかった思い出が。映画でも喘息持ちの警備担当者が巨体を揺らしながら狭い階段を駆け上がっていましたが、絶対にできないです。すれ違えないし(確か一方通行)、自分の荷物も邪魔になるし。消防隊員は完全装備で、しかも熱に包まれている中を駆け上がっていくわけですから、訓練のたまものとはいえ、すごいことです。消防士さんには足を向けて寝られません。

 ノートルダムといえば、あのガーゴイルの石像が印象的かと思いますが、wikiで調べたところによれば、「雨樋の機能を持つ怪物などをかたどった彫刻」とありました。ゴシック建築は勾配が急で雨水が勢い良く漆喰の壁を濡らしてしまうため、壁から離れたところに水を落とすための吐出口が必要となり、あの彫刻が出来上がったそうです。

 しかしこの火事の局面で飛び出して来たのは、雨水ならぬ流れる鉛。想像もしなかったことですが、鉛の特性(耐食性に優れているが、融点が327度と低い)で、火災時にはあっという間に液体になったと思われ、意外な伏兵があったことを知りました。

 火災消火後の事故処理に、あの鉛はどうなったのでしょうか?

 

【「茨の冠」救出作戦】

 映画は、火災直前の観光客でにぎわう様子も描いてますが、どのガイドも口々に説明するのが「いばらの冠」。救出すべき数々の文化財で、大聖堂の大司教様がいの一番に挙げたのが、キリスト磔刑の際にかぶっていたとされる「いばらの冠」でした。聖堂の内陣奥深くに保管され厳重に鍵がかかり、それでは保管庫ごと救出というわけにもいかず、とにかく取り出さなければという、スリルとサスペンスあふれる場面となっています。

無事に救出したものの、一般の観光客も含めて多くの人がそうだと思っていた冠が、実はレプリカであり、保管場所の鍵を持っているのは、ロラン・プラドという名の学芸員。映画内での使われていた役職名を覚えていないのですが、おそらくはノートルダム大聖堂学芸員のトップに立つ方で間違いないと思います。本人も、何とか現場に近づこうと必死の努力をしますが、このあたりのドタバタぶりが緊張をほぐす役目にもなっていて、いいアクセントだったと思います。ともあれ、鍵を持って火災現場に入っていき、鍵を開けていくのですがその開け方が!アナログでありながら、本人でなければ絶対に分からないシステムで、まったく別の作品ですが、「月に咲く花の如く」という、中国ドラマの一場面を思い出しました。

 本物救出後のメディア対応がまた洒落ていて、にやりとさせられます。

 

【偉い人対応】

 これだけの大惨事ですから、当然あの人も現場を視察したいですよね、マクロン大統領。どこの国でも、偉い方は出張ってきたいのねと苦笑しながら見ていると、その上を行く対応の消防隊員たち。この忙しい中、本物の現場視察をされると混乱するため、視察用のフェィク消防車を用意するという周到さ。現場の人達は、マクロン大統領の訪問は単なるパフォーマンスに過ぎないとわかっているわけで、それなら、その茶番に付き合ってやろうというこれまた大人な対応を見せるのです。

この映画の中のマクロン大統領、そっくりさんかと思っていたのですが、IMDbのサイトを見ると、どうやらご本人だった様子。おそらく当時の映像などをうまくつないでいるのでしょうけれど、コケにされっぷりが半端ないです。

 最近観ている映画が、「いかに当局の検閲をかわすか」といったものが多く、妙にハラハラしていたのですが、これって当たり前ですよね。文化財の保護もできず、見栄えのある場面だけに登場しようという国のトップは、笑われても仕方がない。当たり前の健全さが、ややうらやましく感じられました。

【消防士のこと】

 皆さんの活躍ぶりは映像の通りですが、面白いと思ったのが、役職が准将とか大佐とか、軍隊式になっていたこと。こちらもwikiで調べてみたところ、この火災に対して出動した消防は、「パリ消防旅団」というフランス陸軍に属する消防工作部隊とのこと。だから、階級が軍隊と同じで、作中でも誰が誰より指揮権が上かといった話が出てきたのでしょう。下位の者が意見をする場合も、指揮命令系統にのっとった規律が求められ、かなり厳格な組織と感じました。軍隊なんだからそりゃそうだ。

 フランス語で消防士のことをpompier(ポンピエ)と言いますが、直訳すれば「ポンプを使う人」となり、英語のfiremanよりピッタリした名称に思えます。なんか英語だと、「火をつける人」見たいな印象があるんですよね。 

 

あれこれと書き連ねましたが、ドキュメンタリーのような深刻さばかりでなく、ところどころにちりばめられたユーモアと皮肉と、この大惨事に立ち向かった多くの人達の記憶が盛り込まれている、面白い作品だと思います。

 

原題:Notre-Dame brûle  2021年製作 上映時間:110分

監督:ジャン=ジャック・アノー 製作国:フランス・イタリア

 

 

 

『心は孤独な数学者』読了 

「心は孤独な数学者」 著者 藤原正彦 出版社 新潮社 1997年10月30日発行

 ここ数年まともに読書をしてこなかったせいか、何を手に取っていいのかも

分からなくなってしまった。以前は翻訳ミステリーが好きで、気に入ったものは

新刊をすぐ手に取っていたものだが、御多分にもれず「ちょっと高いです~」と

なってしまい、もっぱら図書館頼みの日々。新刊の貸出予約は。生きている間に

読めるのだろうかというくらいの順番待ち。仕方がないので、すぐに読めそうな本を選びたいのだけれど、「はて、何を読みたいのかしら?」となってしまい、図書館に行っても戸惑うばかり。こんな悩める私の救世主となりそうなのが、「打ちのめされるすようなごい本」。米原万里さんが1995年から2006年までに著した全書評を一冊にまとめたもの。一読してその読書量に驚愕。単純な私は、「そうだ、ここに出てきた本を読んでいけばいいのでは?」と思った次第。

 その栄えある第一冊目がこの「心は孤独な数学者」。藤原正彦氏は、数学者にして随筆家として名高い方なので、これ以上のことを書く必要もないかと思う。過去に「若き数学者のアメリカ」を読んだきりだが、70年代のアメリカでまさに孤軍奮闘するありさまを時に面白く時にほろ苦く描いて、外国で働くことの一端に触れた本。数学者そのものの仕事については素人の理解の及ぶところではなく、「すごい方なのだ」という知識があるのみ。いささか余人の知りえぬ世界に暮らす方が、さらに理解の及ばない数学の天才達についての評伝を読みやすく書かれたのが本書。取りあげているのは、アイザック・ニュートン、ウィリアム・R・ハミルトンそしシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの三人。かろうじてニュートンの名前は知っていたものの、数学者としての認識はなかったし、あとの二人はごめんなさい、まったく存じ上げませんでした。とはいえ、藤原氏にとってこのお三方は、アイドルというか神様というか、畏れ多い大天才。特に三人目のラマヌジャンについては力の入れようが格段に違っていて、その熱さでもって背中を押されるようにページをめくりました。

 ラマヌジャンの天才を表現するのに、作者は以下のように綴っている。『ラマヌジャンは、「我々の百倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思いつけたのか見当がつかない」という天才なのである。『アインシュタイン特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、二年以内に誰かが発見しただろうと言われる』そのうえで、作者がラマヌジャンの公式をみてどう感じるかといえば、『文句なしの感嘆であり、しばらくしてからの苛立ち』なのだそうだ。このあたりは、数学者でなければ感じることのできない感想であり、そこが理解できないのはそれこそ私も「苛立つ」ところではあるが、だからこそ、数学界にそびえたつ偉人であることは間違いなく伝わってくる。その意味でも、このインド出身の不世出の数学者の名前をしり、その偉業の陰にあるエピソードを知りえたことがありがたかった。

 出版年が1997年と20年以上前であることから、インド社会に対する、やや上から目線な部分が、今となっては鼻白むところではあるが、私のようにおよそ理解不能な世界を垣間見せてくれるという点、そして偉大な学者がいかに理解されないかという点や、純粋科学としての熾烈な競争などを垣間見られるのも、興味深いところだと思う。

 

『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス河畔通り23番地』鑑賞

 タイトルが長すぎてなかなか覚えられない映画です。とはいえ一年越しで観たかった作品。昨年の「シャンタル・アケルマン映画祭」に続いて今年も開催となったのはうれしい限り。というか、去年は『オルメイヤーの阿房宮』を勇んで観に行ったものの、まさかの沈没。そういえば、同じ原作の『地獄の黙示録』も途中で寝てしまったので、きっと原作と相性が合わないのだわ!と思っています。

 そして、満を持しての『ジャンヌ・ディルマン~』。こちらはタイトルにあるジャンヌという名の女性の生活ぶりをひたすら映し出していくもの。正直途中で眠気に誘われるのですが、その感覚も含めて、普通に市井に暮らす女性の様子を余すところなく描いている映画。例えば、掃除や料理といった場面の最初と最後を描いて、きれいに整った部屋が出てくれば「手際がいいな」となるし、散らかった台所であれば「何かうまくいかなかったのかな」、と理解するものだと思う。ところが、この映画はお風呂掃除や野菜の下ごしらえにしても、延々と省略することなく映し出していく。これが長尺になっている理由であり、観客がジャンヌに寄り添うためにどうしても必要な時間となっている。結構ありますよね。もっと短くてもいいのにと思う作品って。

 しかも、ほぼほぼ同じことを繰り返しながら、わずかな行き違いが主人公と観客に澱としてたまっていき、最後になだれ込んでいくあたり、見事な作劇だと感じた。

 主人公は女手一つで思春期の息子を一人で育てているものの、家の中は常にきれいに整えられていて、あまり生活に困窮しているようには見えない。しかし、生活を支える主な手段は自宅での売春である。彼女の見事な時間管理術できっちりと生活に組み込まれていて、その生活ぶりはどこまでも破綻なく続いていくように見える。

 ところが、二日目の客から始まる行き違いから、整った生活がだんだんとずれ始めていくあたり、決して他人事ではないように感じた。自分のことをある役割にはめ込んで認識しているという感覚。自分自身もそこから抜け出す必要性を感じていないのに、なぜか不条理なことが身に起こったときに感じる不安な気持ち。本来なら楽しむべきことを後ろめたく感じるとき。なかなか自由になれない自分を感じたときに、どうやって折り合いをつけていくのか。はじけてしまうのか、元の生活を取り戻そうとするのか。主人公が自問自答するような場面はないけれど、延々と映し出される家事を通じて、観客もじっくりと向き合い、自らに問いかけていくような作品だと思う。

 映画の内容と同じくらいに心惹かれたのが、ジャンヌの住まい。あの清潔な台所が素敵だったな。調理台兼、朝食どきのテーブルがアクセント。なぜか椅子が増えたり減ったりするのが気になったけれど(imdbトリビアにも指摘があった)。今風のシステムキッチンではなく、流し、ガス台、食料品庫と役割がはっきりしたレイアウト。台所に小さなベランダがついていて、出来上がったお料理をちょっと外ににおいておけるのも気が利いている。

 昼間はきっちりと片付き、夜は息子の寝室に早変わりする居間にも驚いた。彼には自分の部屋がないんですね。寝室一つに居間、台所、お風呂場といった感じ。玄関口から居間へのアプローチに余裕があって、そこにスペースをとっているあたり、日本との住居哲学の違いのようなものも感じられて非常に面白かった。編みかけのセータを入れてあるバッグ。やはりあの細長い三角形のカバンは編み物バッグなんですね。昔ヴィトンの三角バッグを観たときに「何を入れるんだろう?」と思っていたら、「編み物用バッグなのよ」と教えてもらったのですが、あの形はきっと編みかけのものを入れるバッグとしての定番の形なんでしょうね。

 そうそう、洋服ダンスの使い方もおそらく日本とちょっと違うと思う。丈の長いコートやワンピースのようなものをハンガーにかけるのは同じでも、シャツやセーターは

たたんで積み重ねてあった。いえ、引き出しに入れたって、積み重なるとは思いますけれど、クローゼットの棚の上に積み重ねておくというのが新鮮に思えたので。おそらく作品と同時代の日本であれば、ああいったしまい方はしていないと思う。

 もう一つ、靴の国の人なんだなと強く思った。家の中でもあの高さのパンプスですよ。さすがに起き抜けにはミュールを履いていても、そこそこ踵が高い。息子の靴は毎日磨く。革靴ってああやって毎日手入れをするものなんだ。ジャンヌは起き抜けにすぐには着替えず、ガウンを羽織ってコーヒーを入れたりするけれど、そんな時にもきっちりボタン(これがのちの伏線になっている)をかける。家事をするときは、半そでの上っ張り(懐かしいですねこの響き)をこれまたきっちりと着て掃除に励むわけです。なんというか、ある行動をするときには決まった装いがあるという、今ではほとんど顧みられない習慣を観られるところも、個人的には好感度が高かった点。

 

 

原題:Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles

1975年作品 200分 ベルギー・フランス合作

監督:シャンタル・アケルマン

撮影:バベット・マンゴルト

出演:デルフィーヌ・セイリグ(ジャンヌ)

 

偶然か選択か

 ここ最近観た映画とテレビ番組が内容が、なんとなく自分の中でつながっていて、

「これは偶然なのか、それとも知らないうちに選択したことの積み重ねなのか?」と思っている。

 何かと話題豊富な『ター」を観に映画館へ。感想はまた別の機会にするとして(つまり消化しきれていない)、主人公が仕事場に使っていると思われる部屋に心惹かれた。生活の拠点は、充実した広さと設備はあるものの、どこか冷たい感じのする高級なフラット。一方の仕事場は、防音設備もなく古ぼけたアパートの一室だ。私の好みはこの古いアパートのほうで、何となく乱雑ながらも清潔にしてあるといった風情が非常に好もしく感じた。

『ター』の公式HPや批評などを探すうち、どこかで「シャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』へのオマージュがある」という一文を読んだ。折しもシャンタル・アケルマン映画祭が開催中でその作品も上映されていたのだが、予定が合わずに断念。実は昨年も彼女の映画祭は開催されていて、かなりの期待を持って『オルメイヤーの阿房宮』を観に行ったのだが完全沈没。同じ轍を踏むかもと思いつつも、『東から』という、ソ連崩壊後の元社会主義国をひたすら映し出すという作品を鑑賞した。ナレーションや説明は一切なく、言葉を知っていなければ、どこの国とわからないような撮り方になっている。当然日本語字幕もなし。嫌な予感にもかかわらず意外にも最後まで食い入るように見てしまった。

 それは、映画館に行く前に観た、NHKのドキュメンタリー『ファイトロード』が思いのほか好番組で、その余韻が残っていたからかもしれない。セネガル相撲を体験する村田涼太の、非常にまじめな人柄が分かって好感が持てたし、現地での人と人との垣根の低いところをうまく番組に取り込んであるところもよかった。昔ダカールに行ったとき、スーパーをぶらぶらしていると、サッカーの元セネガル代表が仕事をしていた。案内してくれた人が「ほら、***(名前忘れた)選手だ」と言って、一面識もないはずなのにつかつかと近寄って何やら親しげに話しかけると、相手もにこやかに応対しているではないか。はたから見ると、久しぶりに会った知人という感じ。そんなやり取りがこの番組にもしっかりとカメラに収められていて、その余韻が映画鑑賞の助けになった気がしている。映画のほうは、普通の生活ぶりといってもなかなかに厳しく、人間の忍耐強さを試されているような場面も多く、正直自分がそこにいたら無事にやり過ごせていたかなと心配になってしまう。例えば、冬の夜道にずらりと人々が並んでいて、その手には何かを持っている。よく見れば、たばこだったり、牛乳だったり、袋入りのお菓子だったり。おそらくは、道行く人に売買あるいは物々交換を持ち掛けているのでしょう。映画は何の説明もしないし、具体的に「これいくら?」「そっちは何持ってる?」なんてやり取りも映らない。映像はバッサリとした映し方でも脳内補完が十分できるというか、想像の余地があるというのか。そんなやり取りを観ていると、直前のテレビ番組の余韻がふと頭に浮かんで、そんな面倒なやり取りを切り捨てながら、一方では人間関係が希薄だと不満を言う自分自身の心の内を見つめている気がしてきた。説明が一切ないからこそ、映画を見ながら自分の中にいろいろなことや、考えが浮かび上がってきて、作品と話しながら見られたから、最後までたどり着けたのかもしれない。

 そうそう、この映画であるチェリストの演奏会の様子が撮影されていて、あっと思いながら「ター」のチェリストがよみがえってきた。

 おそらくは偶然なのだけれど、こんな風にめぐりめぐってくるところがあるから面白い。